中国人と中国語で会話をしていると、頻繁に出てくるのが「差不多」と「没办法」という単語である。それぞれ発音をカタカナで書くと「チャァ・ブ・ドゥォ」「メイ・バン・ファ」という感じか。「没办法」はいずれまた機会があれば取り上げるとして、今回は「差不多」の方である。
「差不多」を日本語に直訳すると、漢字を読んでほぼそのままの「差は多くない」という意味になる。要するに「似たようなもの」とか「だいたい同じ」、「ほぼそんなもん」と言いたい時に使う。大方の意味はこんなニュアンスだが、実は「差不多」は非常に深い言葉だそうで、前後の文脈や言い方によって肯定的にも否定的な意味にもなるらしい。中国人同僚に言わせると「『差不多』だけで一冊の本が書ける」そうである。それが本当かどうかは知らないが、中国語歴の浅い私なぞは、この言葉の真髄を恐らく完全には理解していないのだろう。言葉は文化である。そしてその文化と背景を理解しなければ、言葉の持つ本当の意味を理解できないのではなかろうか。
で「差不多」である。具体的にはこのような時に使う。
「この料理、以前来た時の方が美味しかった気がするけど?」
「差不多(似たようなもんだ)」
「(タクシーにて)どうしてこっちの道を行くんだよ。あっちを通った方が近いでしょうが」
「差不多(そんなに変わらないよ)」
「なんでこの回路にこんなトランジスタを使うんだよ。ちゃんと型番指定してあっただろ?」
「差不多(特性だいたい同じじゃん)」
中国はとにかく広い。そして大きい。人口も世界一である。さらに五十以上の民族が暮らす多民族国家でもある。広大な大地、世界一の人口を抱え、細かいことにいちいち構っていたら物事が前に進まない。大枠で物事をとらえ、詳細についてはその枠の中に納まっていればとりあえずそれで没問題、まずはだいたいそこそこから事を進め、途中何か問題が出ても、最終的には適当なところにゴールすればそれでいいじゃんか。そこから生まれた言葉が「差不多」。ある意味、中国と中国人の気質を言い表す最適な言葉ではないか。
しかし「差不多」の意味する最も重要なところは、「ほとんど同じ」であってもあくまでも「違う」ということである。
先日もこんなことがあった。とある中国ローカルの板金製造加工業者に仕事を頼んだ。責任者と技術者を呼び、面と向かって図面や加工方法の細かい説明をし、まずは試作を作ってもらった。評価したところ、特に問題はない。寸法もきっちり出ているし、加工や表面処理も十分綺麗である。値段も日本で作ったものを輸入するよりも三分の一以下と安い。満足した私は量産のゴーサインを出した。
しかし量産開始して半年ほど経った頃、不良品が多発したのである。それはとある製品に使う棒状の金属部品だった。長尺方向の寸法は 100mm で、加工誤差やら公差やらを全て合わせて ±2% を合格基準としてあった。つまりは 98~102mm の範囲であれば合格なのだが、入荷された部品はほとんどが 98mm ギリギリ。検査落ちしているのは当然ながら寸法が足りないものばかりである。恐らくは、と言うかほぼ間違いないのだが、偶然ではなくて故意である。少しでも長さを切り詰め、材料を節約しているのだ。
電話やメールで改善して貰うように依頼し、「金型を少し変更した」とか「次のロットからは没問題だ」と回答はくるが、検査落ちは一向に減らない。業を煮やした私は責任者と技術者を呼びつけた。
「ほれ見ろ、どれもこれも合格基準から短い不良ばかりじゃないか」
「いや~、差不多じゃないですかね」
「どこが差不多だよ。合格しないのはそっちの責任だ」
「じゃあこれを組み付ける受け側の寸法を変えたらどうですか?」
うぬぬ。言うに事欠いてそう来るか。しかし不良品が頻発して生産や経営計画に穴が開きつつある。非常にまずい状態である。だがこれ以上業者を責め立てても多分改善なんかするはずはない。叱責され続けて、彼らの面子も立たないのかもしれない。仕方ない。ここはこちらも改善方法を提案でもしてみる。
「ならこれからは寸法を 101mm として作ってくれ。これなら多少短くても合格基準に入るはずだろう」
「わかりました。金型を変更します。ただ」
「ただ、何?」
「長さが長くなるので、その分価格が上がります」
差不多だろうが馬鹿野郎!
今ここにちゃぶ台があれば、私は間違いなくひっくり返していた。
中国で仕事をするのは本当に疲れる。まあしかし郷に入ればなんとやら。没办法なのかもねえ ← こうやって使います