北京オリンピック開幕まで、あと五十日あまり。いよいよ中華民族悲願の五輪開催が目前に迫ってきた。
よく日本の知人や友人から、今時分はオリンピックに向け、街をあげてさぞかし盛り上がっていることでは、と聞かれる。しかし正直言って全くと言っていいほど盛り上がりの欠片もない。もちろんテレビやラジオ、新聞では連日のように五輪関連の報道はあるし、街を歩けば垂れ幕も下がっている。遅れに遅れた関連施設の建設もようやく目処が立ちそうになってきた。しかしそれらを迎える北京一般市民の反応、というか中国人同僚や知り合いなど私の周りの人々の間に限るのかもしれないが、おしなべて冷ややかというか、正直言って面倒なだけ、という雰囲気が溢れているように思える。
私個人的にもそうである。今住んでいるところでオリンピックが開かれる、それも日本ではなく外国の都市で。こんなことは長い人生の中でもそうそうあるものではない。しかも国として初めての五輪。さぞかし華やかかつ楽しげに盛り上がるものと楽しみにしていた。しかし開催が近づいても華やかどころか「本当にやるのか」と余計な心配がしたくなるほどの盛り下がりぶり。念願、悲願と政府は必死にアピールするが、実情はこんなもんなのか、と第三者ながら拍子抜けする。
さらに言えば、今回のオリンピックほど直前になってケチがついたものもあるまい。毒餃子事件に始まり、チベット騒乱、それに続く聖火リレーの大混乱、そして大地震に大洪水。もちろん自然災害は不可抗力だとしても、それ以外は中国という国の傲岸不遜と空気の読めなさを全世界にアピールする結果になった。五輪を成功裏に終わらせ、中華民族の優秀さと影響力を世界に知らしめる。その意図と、中国以外では何の役にも立たない「面子」だけがひたすら空回りし、自分たちの都合ばかりを押しつけた結果として世界中からドン引きされたわけである。そりゃ誰だって引くわな、「世界のスポーツの祭典」をいつの間にか「中華民族大運動会」にすり替えてれば。
かつて世界を東西に二分した冷たい戦争が行われていた頃も、オリンピック参加・不参加が喧しく議論されたことがあったが、それはあくまでも政治的イデオロギー対立の駆け引き道具としてであり、個々人の感情とは別だったように思う。しかし今回はどうか。スポーツはスポーツ、競技はあくまでも競技であって、ホスト国への個人的心情とは全く別物である。それでも、これら「ケチ」をして、とてもじゃないが心から開催を祝福し楽しめるほど、私の心は広くない。平々凡々たる私が思うぐらいだから、きっと多くの人も同じ思いではないか。どうでしょうかね?
いやまあ、何度応募しても結局観戦チケットが一枚も当たらなかった腹いせでこんなことを書いているわけでは、けして無い。ホントは少しある。あるのかよ。
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