知人とたわいのないメールをやり取りしていて、先週末は祖父にあたる人の二十三回忌法要に出席したという話が出た。幸いこの週末は天気も良く、寒さも緩んだ実に法事日和な陽気のなか、滞りなく式を行うことが出来たとのこと。まあ陽気に法事向けもないものだが、暖房のないお寺の本堂で御坊の経を聞く時に寒いのはかなわない。出席された知人の親戚だってそれなりの年輩の方も多いだろうから、これで冷え込んだ日だったりしたら、お迎えしたのかお迎えが来たのかわからなくなるというものだ。って、なんてことを。
ところでこういう法要は宗派や地域の習慣によって微妙に違うようだが、一般的には、一、三、七、十三、十七、二十三、二十七(二十三と二十七回忌を合わせて二十五回忌とすることもあるらしい)、そして三十三、あるいは五十回忌で「弔い上げ」となって終了、というパターンだそうである。こういう行事に疎い私でもさすがに十三回忌や十七回忌ぐらいまでは知っていたが、三十三、あるいは五十回忌でとりあえず年忌法要は終わり、というのは知らなかった。弔い上げとなったあとは「先祖代々」に仲間入りして子孫の代が供養するわけらしい。さすがに死んでから三十年から五十年もすると、故人の見知った人はほとんど鬼籍に入るだろうから、「先祖代々」として祀るほうがなにかとよかろうという配慮なのだろうか。
それにしてもこういう行事の話を見聞きしてみると、こうして故人を送ったり、あるいは偲んだりということをあと何回かして、そして自分の番を待つだけのところにもう来ているのだなあ、とふと思うのである。祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり。昔の人は良いことを言うものだ。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。